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花魁 小田原評定 陰陽師 奥州藤原氏 おみくじ 大奥法度 大奥 岡場所 おあむ日記 御家騒動 大 王 お米 大塩平八郎の乱 桶狭間の戦い 応仁の乱 |
『 花魁 』 |
遊女の中の遊女。庶民からは雲の上の存在の女性 吉原のメインストリート(歩いて10分くらい)を1時間かけて歩くのは花魁道中(おいらんどうちゅう) 花魁の中でも最高位は「呼び出し」の花魁 3000人くらいの花魁の中でも4人しかいなかったらしい ダンナさんたちは、花魁をクスリと笑わせるのに命がけだった |
『 小田原評定 』 |
豊臣秀吉が小田原を攻めた1590年 北条家の小田原城内では 「おいおい攻めてきたよ。どうする?」 「小田原城は堅城だから大丈夫だよ!」 「そうかなぁ・・・。大丈夫かなぁ・・・」 「降参した方がいいんじゃないのかぁ?」 「何言ってる!降参なんかするもんか!」 このように、いつまでたってもダラダラと話し合い、結果が決まらないことを「小田原評定」と言います |
『 陰陽師 』 |
平安時代に活躍した霊媒師みたいなもの この時代は「鬼」とか「呪い・祟り」がハバをきかせていた時代なので 陰陽師は引く手あまた 有名な陰陽師は藤原道長につかえた安陪清明 ちなみに清明のライバルは芦屋道満(あしやどうまん) 道満は藤原道真の政治の敵・藤原顕光のお抱え陰陽師だった |
『 奥州藤原氏 』 |
平安時代、奥州平泉を拠点とした大豪族 金が取れまくり、超大金持ちに 三代目の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の時がピーク 秀衡の時に、源氏の源義経がやってきて、秀衡はめちゃくちゃ可愛がった 義経が頼朝とケンカして追われてきたときも匿ったんだけど、秀衡が病気になって死んじゃった 後を継いだのは泰衡(やすひら) だけど泰衡は頼朝に「義経よこさんと殺すぞ!おら!」と言われ、 「義経を匿ってたら奥州がヤバイ」と、とうとう義経を殺しちゃった 泰衡は「義経殺したよ!だからもういいでしょ?」といったんだけど、頼朝は「わはははー!バカめ!誰が許すか!」と、奥州に攻め込みあっけなく滅亡した。 |
『 おみくじ 』 |
神社に行って気軽に引く占い 昔は現代と違って、すごい重要なものだった 一番最初におみくじが資料に出てきたのは、藤原定家の「明月記」 で、戦国時代でおみくじで出陣日を決めてたのは立花道雪 みんな神様の前でマジでみくじってた |
『 大奥法度 』 |
春日野局が作った大奥の法律 大奥での出来事をベラベラ喋るなってのが中心 |
『 大奥 』 |
春日の局がシステム化した江戸幕府の将軍様用の巨大ハーレム 現在の北朝鮮の喜組(よろこびぐみ)のようなもの 将軍様が「今晩はあの娘とエッチしょう」と決めたら逆らってはいけない。というより、超ラッキー 万が一男児を出産したら「お部屋様」に昇格 玉の輿を狙う女性が多く存在した ちなみに30歳を過ぎたら引退しなければならない |
『岡場所』 |
江戸時代の言葉 吉原以外の性風俗スポットのこと 吉原は幕府公認だったけど、幕府が営業許可を出してない風俗店のことを岡場所とひとくくりに呼んだ |
『 おあむ日記 』 |
関ヶ原の戦いの時に、石田三成の大垣城にこもっていたおあむという少女の体験記 血臭い部屋で寝たり、弟が死んだりと、気の毒な体験談 最後は必死で城から逃げ助かった おばーちゃんになってから子供や孫に話したものをまとめたものらしい |
『 御家騒動 』 |
家の中のバトルのこと 戦国時代にめちゃくちゃ多かった 江戸時代になると、御家騒動を起こすと幕府に怒られるので、みんな隠しまくった 有名な御家騒動は上杉家の御館の乱や大友家の二階崩れなどなど |
『 大 王 』 |
おおきみと読む 天皇のことである |
『 お米 』 |
1万年前くらいから中国で作られ、6000年前くらいには中国の海岸地域まで伝わったといわれてる。 その中国のある村の人たちが、日本に売りにきたと言われています。。 そしてこの頃、縄文人が水田技術を習いに行ったと言われています。 お米によって日本に「戦い」が始まることとなる。 |
『 大塩平八郎の乱 』 |
1837年に「徳川幕府はもっと貧乏人を助けるべきだ!」と立ち上がった大塩平八郎が中心となって起こした暴動 大塩平八郎はもと幕府のお役人だったため、幕府は衝撃を受けました が、密告などもあり1日で鎮圧 ですが、その志を受けた人々が「救民」の旗をかかげ、各地で暴動を起こしまくった。 |
『 桶狭間の戦い 』 |
1560年 織田信長が大出世するきっかけとなった今川義元をやっつけた戦い その頃めちゃくちゃ強かった今川家は「よーし!そろそろ京都に行って天下をとるかぁ!」と立ち上がった それには行く途中にある織田信長が邪魔だった 織田家はその頃、よわっちい国だったので大パニック! そこへ信長の家来が「今川家は桶狭間で休憩中」という情報を持ってきた 桶狭間は狭い所なので「今がチャンス!」と、信長は精鋭を連れて桶狭間へ行き、暗闇の中、今川勢へ急襲! 作戦大成功で、今川義元は首を討ち取られ、「あの今川を破った織田」は、天下に名をしらしめるのです。 そして桶狭間の戦いにより、今川家は衰退の道を歩んでいくのでした |
『 応仁の乱 』 |
1467年 室町幕府八代将軍義政がだらしなかったために起こった戦い 遊び好きの将軍義政は、さっさと将軍を辞めてお茶ワールドにつかりたかったため、弟に将軍を譲る約束をしたんだけど、運悪くその後すぐに正妻の日野富子に男の子が生まれちゃった 自分の息子を将軍にしたい富子は、そのときのお偉いさんたちに声をかけまくった。 さらにそのお偉いさん(山名宗全・細川勝元)もめちゃくちゃ仲が悪かったため、幕府はめちゃくちゃになり、11年にも及ぶ戦いが始まったのでした ちなみに勝敗やうやむや。 残ったのは焼けまくった京都と、その間に勢力を伸ばしつつあった地方の守護たち。これがのちに戦国大名に発展していくのでした |
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